「そんなことないよ。私は好みだなあ」

 たぶんコンパか何かで知り合った男の子の話だろうと思う。自分のことを話されているわけでもないのに僕はなぜかすこし恥ずかしくなる。コートのポケットの中で指先に触れている手紙の感触を確かめながら、窓の外に目を向ける。電車はさっきから高架橋の上を走っている。初めて乗る路線だった。普段乗る小田急線とは揺れ方や走る音が微妙に違って、それが知らない場所に向かっているという不安な気持ちを強くさせる。冬の弱い夕日が地平線の空を薄いオレンジに色づけていて、地上は視界のずっと彼方までびっしりと建物が並んでいる。雪はまだずっと降り続いている。もう東京ではなく埼玉に入っているのだろうか。見知っている風景よりも、街はずっと均一に見える。中くらいの高さのビルとマンションばかりが地上を埋めている。

 途中の武蔵浦和という駅で、快速電車の待ち合わせのために電車は停車した。「大宮までお急ぎのお客さまは向かいのホームでお乗り換えください」と車内放送が告げ、乗客の半分くらいがどやどやと電車を降りてホームの向かい側に並び始め、僕もその最後尾についた。何十本もの鉄道架線と、降りしきる雪の厚い層を挟んだ西の低い空に、たまたまの雲の切れ間から小さな夕日が顔を出していて、その光を受けて夕日の下の何百もの屋根の群れが淡く光っている。その風景を眺めながら、僕はずっと昔にこの場所に来たことがある、とふいに思い出した。

 そうだ、これは初めて乗る路線ではなかった。

 小学三年生にあがる直前、長野から東京に引っ越してくる時に、僕は両親とともに大宮駅からこの電車に乗って新宿駅に向かったのだ。見慣れた長野の田園風景とはまるで異なるこの風景を、僕は電車の窓から激しい不安を抱きながら眺めていた。見わたすかぎり建物だけのこの風景の中で僕はこれから暮らすのだと思うと、不安で涙が出そうになった。それでもあれから五年の月日が経ち、僕はひとまずここまでは生き抜いてこれたのだと思った。僕はまだ十三歳だったけれど、大袈裟ではなくそう思った。明里が僕を助けてくれたのだ。そして明里にとっても同じであって欲しいと、僕は祈った。

 大宮駅もまた、新宿駅ほどの規模ではないにせよ巨大なターミナル駅だった。埼京線を降りて長い階段を昇り、駅の人混みの中を乗り換えの宇都宮線のホームに向かった。構内はさらに雪の匂いが濃く強くなっていて、行き交う人々の靴は雪の水を吸ってぐっしょりと濡れていた。宇都宮線のホームも帰宅の人々で溢れていて、電車のドア位置になる場所には人々の長い列ができていた。僕は人の列とは離れた場所にひとりで立って電車を待った。行列に並んでもどうせまた座れないのだ。──そこで初めて、僕は嫌な予感がした。構内アナウンスのせいだと気づくまで一瞬の間があいた。

「お客さまにお知らせいたします。宇都宮線、小山・宇都宮方面行き列車は、ただいま雪のため到着が八分ほど遅れています」とアナウンスが告げていた。

 その瞬間まで、僕はなぜか電車が遅れるなんていう可能性を考えもしなかったのだ。メモと腕時計を見比べてみる。メモでは五時四分の電車に乗るはずが、もう五時十分だった。急に寒さが増したような気がして、身震いがした。二分後にプァァーン……という長く響く警笛とともに電車の光が差し込んできた時も、寒気は治まらなかった。

*  *  *

 宇都宮線の中は、小田急線よりも埼京線よりも混み合っていた。皆そろそろ一日の仕事なり勉強なりを終え、家に帰っていく時間なのだ。車輌は今日乗ってきた他の電車に比べるとずっと古く、座席は四人掛けのボックス席で、それは長野にいた頃に地元を走っていたローカル線を思い出させた。僕は片手で座席に付いている握りをつかみ、片手をコートのポケットに入れ、座席に挟まれた通路に立っていた。車内は暖房が効いていて暖かく、窓は曇り四隅にはびっしりと水滴が張り付いていた。人々はぐったりと疲れたように一様に無口で、その姿は蛍光灯に照らされた古い車輌にしっくりと馴染んでいるように見えた。僕だけがこの場所に相応しくないように思えて、すこしでもその違和感がなくなるようにと僕はできるだけ息を潜め、じっと窓の外を流れる景色を眺めていた。

 風景からはすっかり建物がすくなくなり、どこまでも広がる田園は完全に雪に染まっていた。ずっと遠くの闇の中に人家の灯りがまばらに瞬いているのが見えた。赤く明滅するランプのついた巨大な鉄塔が、遠方の山の峰まで等間隔に並んでいた。その黒く巨大なシルエットは、まるで雪原に整列した不穏な巨人の兵士のように見えた。ここはもう完全に、僕の知らない世界なのだ。そのような風景を眺めながら、考えるのは明里との待ち合わせ時間のことだった。もし約束の時間に僕が遅れてしまったとしたら、僕にはそれを明里に知らせる手段がなかった。当時は中学生が持つほどには携帯電話は普及していなかったし、僕は明里の引っ越し先の電話番号を知らなかった。窓の外の雪はますます勢いを増していった。

 次の乗り換えとなる小山駅に着くまでの間、本来なら一時間のところを電車はじりじりと遅れながら走った。駅と駅との間の距離は都内の路線からは信じられないくらい遠く離れていて、ひと駅ごとに電車は信じられないくらい長い時間停車した。そのたびに、車内にはいつも同じアナウンスが流れた。「お客さまにお断りとお詫び申し上げます。後続列車遅延のため、この列車は当駅にてしばらくの間停車いたします。お急ぎのところたいへんご迷惑をおかけいたしますが、今しばらくお待ちください……」

 僕は何度もなんども繰り返し時計を見て、まだ七時にならないようにと強く祈り、それでも距離が縮まらないままに時間だけが確実に経っていき、そのたびに何か見えない力で締め付けられるように全身がどくどくと鈍く痛んだ。まるで僕の周囲に目に見えない空気の檻があり、それがだんだん狭まってくるような気分だった。

 待ち合わせに間に合わないのは、もう確実だった。

 とうとう約束の七時になった時、電車はまだ小山駅にさえ着くことができずに、小山駅から二つ手前の野木という駅に停車していた。明里の待つ岩舟駅は、小山駅で乗り換えてからさらに電車で二十分かかる距離なのだ。大宮駅を出てから車中でのこの二時間、どうにもならない焦りと絶望で、僕の気持ちはびりびりと張り詰め続けていた。これほど長く辛い時間を、今までの人生で経験したことがなかった。今の車内が寒いのか暑いのか、もうよく分からなかった。感じるのは車輌に漂う深い夜の匂いと、昼食以降何も食べていないことによる空腹だった。気づけば車内はいつの間にか人もまばらで、立っているのは僕ひとりだけだった。僕は近くの誰も座っていないボックス席にどさりと腰を下ろした。途端に足がジンと鈍く痺れ、体の深いところから全身の皮膚に疲れが湧き出てきた。体中に不自然に力が入っていて、それを上手く抜くことができなかった。僕はコートのポケットから明里への手紙を取り出して、じっと眺めた。約束の時間を過ぎて、きっと明里は今頃不安になり始めている。明里との最後の電話を思い出す。どうしていつもこんなことになっちゃうんだ。

 野木駅にはそれからたっぷり十五分ほども停車して、電車はふたたび動き始めた。

*  *  *

 電車がようやく小山駅に着いたのは、七時四十分を過ぎた頃だった。電車を降りて、乗り換えとなる両毛線のホームまで走った。役に立たなくなったメモは丸めてホームのゴミ箱に捨てた。

 小山駅は建物ばかり大きかったが、人はまばらだった。構内を走り過ぎる時、待合い広場のような場所にストーブを中心に何人かが椅子に座り込んでいるのが見えた。これから家族が車で迎えに来たりするのだろうか。やはり彼らはこの風景に自然に溶け込んでいるように見えた。僕だけが焦燥に駆られている。

 両毛線のホームは、階段を下りて地下通路のような場所をくぐり抜けたその先にあった。地面は飾り気のない剥きだしのコンクリートで、太いコンクリートの四角い柱が等間隔に並び、天井には何本ものパイプが絡み合って伸びていた。柱を挟んだホームの両側は吹き抜けになっていて、オォォォという吹雪の低い唸りが空間を満たしている。青白い蛍光灯の光が、このトンネルのようにぽっかりあいた空間をぼんやりと照らしていた。キオスクのシャッターは固く閉じられている。まるで見当違いの場所に迷い込んでしまったような気持ちになったが、きちんと何人かの乗客がホームで電車を待っていた。小さな立ち食いそば屋と二つ並んだ自動販売機の黄色っぽい光だけはいくぶん暖かそうに見えたが、全体としてはとても冷えびえとした場所だった。

「ただいま両毛線は雪のため、大幅な遅れをもって運転しております。お客さまにはたいへんご迷惑をおかけいたしております。列車到着まで今しばらくお待ちください」という無表情なアナウンスがホームに反響していた。僕はすこしでも寒さを防ぐためにコートのフードを頭にかぶり、風をよけるようにコンクリートの柱にもたれてじっと電車が来るのを待った。コンクリートの足元から鋭い冷気が全身に這い上がってきていた。明里を待たせている焦りと体温を奪い続ける寒さと刺すような空腹とで、僕の身体は硬くこわばっていく。そば屋のカウンターに、ふたりのサラリーマンが立ってそばを食べているのが見えた。そばを食べようかと思い、でも明里も空腹を抱えて僕を待っているのかもしれないと考え、僕だけが食事を摂るわけにはいかないと思い直した。せめて温かい缶コーヒーを飲むことにして、自動販売機の前まで歩いた。コートのポケットから財布を取り出そうとした時に、明里に渡すための手紙がこぼれ落ちた。

 今にして思えば、あの出来事がなかったとしても、それでも手紙を明里に渡すことにしていたかどうかは分からない。どちらにしてもいろいろな結果は変わらなかったんじゃないかとも思う。僕たちの人生は嫌になるくらい膨大な出来事の集積であり、あの手紙はその中でのたった一つの要素に過すぎないからだ。結局のところ、どのような強い想いも長い時間軸の中でゆっくりと変わっていくのだ。手紙を渡せたにせよ、渡せなかったにせよ。

 財布を取り出す時にポケットからこぼれ出た手紙は、その瞬間の強風に吹き飛ばされ、あっという間にホームを抜けて夜の闇に消えた。そのとたん、僕はほとんど泣き出しそうになってしまった。反射的にその場でうつむいて歯を食いしばり、とにかく涙をこらえた。缶コーヒーは買わなかった。

*  *  *

 結局、僕の乗った両毛線は、目的地への中間あたりで完全に停車してしまった。「降雪によるダイヤの乱れのため停車いたします」と車内アナウンスが告げていた。「お急ぎのところたいへん恐縮ですが、現在のところ復旧の目処は立っておりません」と。窓の外はどこまでもひろがる暗い雪の広野だった。吹きつける吹雪の音が窓枠をかたかたと揺らし続けていた。なぜこのような何もない場所で停車しなければならないのか、僕にはわけが分からなかった。腕時計を見ると、待ち合わせの時間からはすでにたっぷり二時間が過ぎていた。今日一日で、僕は何百回この時計を見ただろう。刻み続ける時間をこれ以上見るのが嫌で、僕は時計を外して窓際に据え付けられた小さなテーブルに置いた。僕にはもうどうしようもなかった。とにかく電車が早く動き始めてくれることを祈るしかなかった。

 ──貴樹くんお元気ですか、と、明里は手紙に書いていた。「部活で朝が早いので、この手紙は電車で書いています」と。

 手紙から想像する明里は、なぜかいつもひとりだった。そして結局は僕も同じようにひとりだったのだ、と僕は思う。学校には何人もの友人がいたけれど、今このように、フードで顔を隠し誰もいない車輌の座席にひとりで座り込んでいる僕が、本当の僕の姿だったのだ。電車の中は暖房が効いていたはずだけれど、乗客がまばらのたった四両編成のこの車輌の中は、とてつもなく寒々しい空間だった。どう表現すればいいのだろう──、こんなにも酷い時間を、僕はそれまで経験したことがなかった。広いボックス席に座ったまま、僕は体をきつく丸めて歯を食いしばり、ただとにかく泣かないように、悪意の固まりのような時間に必死に耐えているしかなかった。明里がひとりだけで寒い駅の構内で僕を待ち続けていると思うと、彼女の心細さを想像すると、僕は気が狂いそうだった。明里がもう待っていなければいいのに、家に帰っていてくれればいいのにと、僕は強くつよく願った。

 でも明里はきっと待っているだろう。

 僕にはそれが分かったし、その確信が僕をどうしようもなく悲しく、苦しくさせた。窓の外は、いつまでもいつまでも雪が降り続けていた。

 電車がふたたび動き始めたのは二時間以上が経過した頃で、僕が岩舟駅に着いたのは約束よりも四時間以上経った夜の十一時過ぎだった。当時の僕にとってそれは完全に深夜の時間だ。電車のドアからホームに降りた時に靴が新雪に深く埋まり、ぎゅっという柔らかな雪の音がした。もうすっかり風は止んでいて、空からは無数の雪の粒がゆっくりと、垂直に音もなく落ち続けていた。降車したホームの脇には壁も柵もなく、ホームのすぐ横から見渡すかぎりの雪原が広がっている。街の灯りは遠くすくない。あたりはしんとしていて、停車した電車のエンジン音しか聞こえなかった。

 小さな陸橋を渡って、改札までゆっくりと歩いた。陸橋からは駅前の町が見えた。家の灯りは数えられるくらいしか灯っておらず、町はただ黙々と雪に降りこめられつつあった。改札で駅員に切符を渡し、木造の駅舎の中に入った。改札のすぐ奥が待合室になっていて、足を踏み入れたとたんに暖かな空気と石油ストーブの懐かしい匂いが身体を包んだ。目の前の光景に胸の奥から熱い固まりが込みあげてきて、なんとかそれをやり過ごすためにきつく目をつむった。──ふたたびゆっくりと目を開く。ひとりの少女が石油ストーブの前の椅子にうつむいたまま座っていた。

 白いコートに包まれたほっそりとしたその少女は、はじめ知らない人のように見えた。ゆっくりと近づき、あかり、と声をかけた。僕の声は知らない誰かのもののようにかすれていた。彼女はすこし驚いたようにゆっくりと顔を上げ、こちらを見た。明里だった。大きな両目には涙がたまり、目尻は赤くなっている。一年前よりも大人っぽくなった明里の顔は、ストーブの黄色い光を滑らかに映し、僕が今まで見たどんな女の子よりも美しく見えた。心臓を指で直接そっと触れられたような、言葉にできない疼きが走った。それは僕が初めて知る感覚だった。目をそらせなかった。明里の目にたまった涙の粒がみるみる大きくなっていくのを、僕は何かとても貴い現象を見るように眺めていた。明里の手が僕のコートの裾をぎゅっとつかみ、僕は明里の方に一歩ぶん引き寄せられた。僕の裾をにぎりしめた明里の白い手に涙の粒が落ちるのを見た瞬間、こらえられない感情の固まりがふたたび湧きあがってきて、気づいたら泣いていた。石油ストーブの上に置かれたたらいのお湯がくつくつと沸く優しげな音が、狭い駅舎に小さく響いていた。

*  *  *

 明里は保温ポットに入ったお茶と手作りのお弁当を持ってきてくれていた。僕たちはストーブの前の椅子に並んで座り、真ん中にお弁当の包みを置いた。僕は明里からもらったお茶を飲んだ。お茶はまだ十分に熱く、とても香ばしい味がした。

「おいしい」と、僕は心の底から言った。

「そう? 普通のほうじ茶だよ」

「ほうじ茶? 初めて飲んだ」

「うそ! ぜったい飲んだことあるよ!」と明里に言われたけれど、僕はこんなにおいしいお茶は本当に初めてだと思ったのだ。「そうかなぁ……」と答えると、

「そうだよ」とおかしそうに明里が言う。

 明里の声は彼女の体と同じように、僕が覚えていたよりも大人っぽくなっているように思えた。口調には優しくからかうような響きとすこし照れたような響きが混じっていて、明里の声を聞いているうちに僕の体温は次第にぽかぽかとぬくもりを取り戻していった。

「それから、これ」と言って、明里はお弁当の包みを開いて二つのタッパーウェアの蓋を開けた。一つには大きなおにぎりが四つ入っていて、もう一つには色とりどりのおかずが入っていた。小さなハンバーグ、ウィンナー、卵焼き、プチトマト、ブロッコリー。それらが全部二つずつ、綺麗に並べられている。

「私が作ったから味の保証はないんだけど……」と言いながらごそごそとお弁当包みを畳んで脇に置き、「……良かったら、食べて」と、照れたように明里が言う。

「……ありがとう」と僕はやっとのことで声に出した。胸にふたたび熱いものが込みあげてきて、すぐに泣きそうになってしまう自分が恥ずかしくて、必死にこらえた。空腹だったことを思い出して、慌てて「お腹すいてたんだ、すごく!」と言った。明里は嬉しそうに笑ってくれた。

 おにぎりはずっしりと重く、僕は大きな口を開けてひとくち頬張った。噛みしめているうちにも涙が溢れそうで、それが明里にばれないようにうつむきながら飲み込んだ。今まで食べたどんな食べ物よりもおいしかった。

「今まで食べた中でいちばんおいしい」と僕は正直に言った。

「おおげさだなー」

「ホントだよ!」

「きっとお腹がすいてたからよ」

「そうかな……」

「そうよ。私も食べよっと」と嬉しそうに明里は言って、おにぎりを手に取った。

 それからしばらく、僕たちはお弁当を食べ続けた。ハンバーグも卵焼きも、驚くくらいおいしかった。そう伝えると明里は恥ずかしそうに笑い、それでもどこか誇らしげに、「学校が終わってから一度家に戻って作ったんだ」と言った。「お母さんにちょっと教えてもらっちゃったんだけど」

「お母さんになんて言って出てきたの?」

「何時になっても絶対に家に帰るから、どうか心配しないでって手紙置いてきたの」

「僕と同じだ。でも明里のお母さん、きっと心配してるよね」

「うーん……でもきっと大丈夫よ。お弁当作ってる時『誰にあげるの?』なんて訊かれて私笑ってたんだけど、お母さんちょっと嬉しそうだったもん。きっと分かってるんじゃないかな」

 何を分かっているのかが気になったけど、なんとなく訊けずに僕はおにぎりを囓った。たっぷりと量のあるおにぎりはそれぞれが二つずつ食べると十分にお腹がいっぱいになり、僕はとても満ち足りた気持ちになっていた。

 小さな待合室は黄色っぽいぼんやりとした光に照らされていて、石油ストーブの方を向いた膝頭はぽかぽかと温かかった。僕たちはもう時間を気にすることなく、ほうじ茶を飲みながらゆっくりと好きなだけ話をした。ふたりとも家に帰ることは考えていなかった。口に出して確かめあったわけではないけれど、お互いがそう考えていることがちゃんと分かった。話したいことはお互いに尽きぬほどあったのだ。この一年の間に感じていた孤独を、僕たちは訴えあった。直接的な言葉は使わなかったけれど、お互いの不在がどれほど寂しかったか、今までどれほど会いたかったかを、僕たちは言外に相手に伝え続けた。

 コンコンと、駅員が控えめな音で駅員室の硝子戸を叩いた時は、もう深夜の十二時を回っていた。

「そろそろ駅を閉めますよ。もう電車もないですし」

 僕が改札を出る時に切符を渡した初老の駅員だった。怒られるのかと思ったが、彼は微笑していた。「なんだか楽しそうだから邪魔したくはなかったんだけど」と、その駅員はすこし訛りのある発音で優しく言った。

「決まりだからここは閉めなくちゃいけないんです。こんな雪ですし、お気をつけてお帰ください」

 僕たちは駅員にお礼を言って、駅舎を出た。

 岩舟の町はすっぽりと雪に埋まっていた。雪は変わらずにまっすぐ降り続けていたが、空も地上も雪に挟まれた深夜の世界は、不思議にもう寒くはなかった。僕たちはどこかうきうきした気持ちで新雪の上を並んで歩いた。僕の方が明里より何センチか背が高くなっていて、そんなことが僕をとても誇らしい気持ちにさせた。青白い街灯の光がスポットライトのように行く手の雪を丸く照らしていた。明里は嬉しそうにそこに向かって走り、僕は記憶よりもすっかり大人びた明里の背に見とれた。

 明里の案内で、彼女が以前手紙に書いていた桜の樹を見に行くことにした。駅から十分ほど歩いただけなのに、民家のない広々とした畑地に出た。人工の光はもうどこにもなかったけれど、あたりは雪明かりでぼんやりと明るかった。風景全体が薄く微かに光っていた。まるで誰かの精巧で大切なつくりもののような、美しい風景だった。

 その桜の樹はあぜ道の脇に一本だけぽつんと立っていた。太く高く、立派な樹だった。ふたりで桜の樹の下に立ち、空を見上げた。真っ暗な空から、折り重なった枝越しに雪が音もなく舞っていた。

「ねえ、まるで雪みたいだね」と明里が言った。

「そうだね」と、僕は答えた。満開の桜の舞う樹の下で、僕を見て微笑んでいる明里が見えたような気がした。

 その夜、桜の樹の下で、僕は明里と初めてのキスをした。とても自然にそうなった。

 唇と唇が触れたその瞬間、永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか、分かった気がした。十三年間生きてきたことのすべてを分かちあえたように僕は思い、それから、次の瞬間、たまらなく悲しくなった。

 明里のそのぬくもりを、その魂を、どこに持っていけばいいのか、どのように扱えばいいのか、それが僕には分からなかったからだ。大切な明里のすべてがここにあるのに。それなのに、僕はそれをどうすれば良いのかが分からないのだ。僕たちはこの先もずっと一緒にいることはできないのだと、はっきりと分かった。僕たちの前には未だ巨大すぎる人生が、茫漠とした時間が、横たわっていた。

 ──でも、僕を瞬間捉えたその不安はやがて緩やかに溶けていき、僕の身体には明里の唇の感触だけが残っていた。明里の唇の柔らかさと温かさは、僕が知っているこの世の何にも似ていなかった。それは本当に特別なキスだった。今振り返ってみても、僕の人生には後にも先にも、あれほどまでに喜びと純粋さと切実さに満ちたキスはなかった。

*  *  *

 僕たちはその夜、畑の脇にあった小さな納屋で過ごした。その木造の小屋の中には様々な農具がしまい込まれていて、僕と明里は棚にあった古い毛布を引っぱり出し、濡れたコートと靴を脱いで同じ毛布にくるまり、小さな声で長い時間話をした。コートの下の明里はセーラー服を着ていて、僕は学生服姿だった。制服を着ているのに僕たちは今ここで孤独ではない、それがむしょうに嬉しかった。

 毛布の中で話しながら時折僕たちの肩は触れあい、明里の柔らかな髪は僕の頬や首筋を時々そっと撫でた。その感触と甘い匂いはそのたびに僕を昂ぶらせたけれど、僕には明里の体温を感じているだけでもう精一杯だった。明里の喋る声が僕の前髪を優しく揺らし、僕の息も明里の髪をそっと揺らせた。窓の外では次第に雲が薄くなり、時折薄い硝子窓から月明かりが差し込んで小屋の中を幻想的な光に満たした。話し続けるうちに、僕たちはいつのまにか眠っていた。

 目を覚ましたのは朝の六時頃で、雪はいつのまにか止んでいた。僕たちはまだほのかに温かさの残るほうじ茶を飲み、コートを着て駅まで歩いた。空はすっかり晴れわたり、山の稜線から昇ったばかりの朝日が雪景色の田園をきらきらと輝かせている。眩しい光に溢れた世界だった。

 土曜日の早朝のホームに、乗客は僕たちしかいなかった。オレンジと緑に塗り分けられた車輌全体に朝日を受け、両毛線が車体のあちこちを輝かせながらホームに入ってきた。ドアが開き、僕は電車に乗り込んで振り向き、目の前のホームに立っている明里を見た。白いコートの前ボタンをはずし、間からセーラー服を覗かせている、十三歳の明里。

 ──そうだ、と僕は気づく。僕たちはこれからひとりきりで、それぞれの場所に帰らなければならないのだ。

 さっきまであれほどたくさんの話をして、あれほどお互いを近くに感じていたのに、それは唐突な別れだった。こんな瞬間に何を言ったらよいのか分からずに僕は黙ったままで、先に言葉を発してくれたのは明里だった。

「あの、貴樹くん」

 僕は「え」、という返事とも息ともつかない声を出すことしかできない。

「貴樹くんは……」と明里はもう一度言って、すこしの間うつむいた。明里の後ろの雪原が朝日を浴びてまるで湖面のようにきらめいていて、そんな風景を背負った明里はなんて美しいのだろうと、僕はふと思う。明里は思い切ったように顔を上げ、まっすぐに僕を見て言葉を続けた。

「貴樹くんは、この先も大丈夫だと思う。ぜったい!」

「ありがとう……」と僕がやっとの思いで返事をした直後、電車のドアが閉まり始めた。──このままじゃだめだ。僕はもっとちゃんと、明里に言葉を伝えなければならない。閉じてしまったドア越しにも聞こえるように、僕は思い切り叫んだ。

「明里も元気で! 手紙書くよ! 電話も!」

 その瞬間、遠くで鋭く鳴く鳥の声が聞こえたような気がした。電車が走り始め、僕たちはお互いの右手をドアのガラス越しに重ねた。それはすぐに離れてしまったけれど、確かに一瞬だけ重なった。

 帰りの車輌の中で、僕はいつまでもドアの前に立ち続けていた。

 明里に長い手紙を書いていたこと、それをなくしてしまったことを、僕は明里に言わなかった。きっとまたいつか会えるはずだと思っていたからでもあるし、あのキスの前と後とでは、世界の何もかもが変わってしまったような気がしたからでもある。

 僕はドアの前に立ったまま、明里が触れたガラスにそっと右手をあてた。

「貴樹くんはこの先も大丈夫だと思う」と、明里は言った。

 何かを言いあてられたような──それが何かは自分でも分からないけれど──不思議な気持ちだった。同時に、いつかずっとずっと未来に、明里のこの言葉が自分にとってとても大切な力になるような予感がした。

 でもとにかく今は──と僕は思う。僕は彼女を守れるだけの力が欲しい。

 それだけを思いながら僕はいつまでも、窓の外の景色を見続けていた。

第二話「コスモナウト」