ほとんど無意識のうちに、私は高台の斜面を登り始めていた。柔らかな夏草を踏みしめる感触。やばい。何やってるんだろう私。私ははっと冷静になる。近くで見たバイクはやっぱり遠野くんのだったけれど、私はこんなふうに彼のところに押しかけて一体何をしたいのだろうか。こんなふうに会わない方がいいに決まっているのだ。きっと私自身のために。それでも足は止まらず、大きな草の段差を踏み越えて拓けた視界の向こうに、彼はいた。星空を背に高台の頂上に座り込んで、やっぱり携帯メールを打ちながら。
まるで私の心を揺らすためのように風がざーっと吹いてきて、私の髪と服を揺らし、あたりは草のさざめく音に満ちた。その音に呼応するように私の胸はどくどくと大きな音を立て始めて、私はそれを聞きたくなくてわざと大きな音を立てて斜面を登る。
「おーい、遠野くん!」
「あれ、澄田? どうしたの、よく分かったね」すこし驚いたように、遠野くんが私に向かって大きな声で喋ってくれる。
「へへへ……。遠野くんの単車があったから、来ちゃった! いい?」と言いながら、私は早足で彼に向かう。こんなのはなんでもないことなのよ、と自分に言い聞かせながら。
「うん、そうか。嬉しいよ。今日は単車置き場で会えなかったからさあ」
「あたしも!」とできるだけ元気に私は言って、スポーツバッグを肩から降ろしながら彼の隣に座り込む。嬉しい? ホントなの遠野くん? 心臓がなんだかずきずきする。彼のいる場所に来た時は、いつもだ。ここじゃない、という言葉が一瞬だけ心をよぎる。西の地平線はいつのまにかすっかり闇に沈んでいる。
次第に強くなる風が、眼下に遠く広がる町のまばらな電灯をちらちらと瞬かせている。小さく見える学校にはまだいくつか明かりがついている。国道沿いの黄色い点滅信号の下を、車が一台走っている。町の体育施設にある巨大な白い風車が勢いよく回っている。雲の数は多く流れは速く、切れ間には天の川と夏の大三角形が見える。ベガ、アルタイル、デネブ。風は耳元で巻いてヒュウゥゥという音をたて、草と木とビニールハウスが揺れるザアッという音と盛大な虫の音とが混じり合っている。強く吹く風は私をだんだんと落ち着かせる。あたりは強い緑の匂いに満ちている。
そんな風景を眺めながら、私と遠野くんは隣り合って座っている。鼓動はもうずいぶん静まっていて、彼の肩の高さを間近で感じていられることが、私は素直に嬉しい。
「ねえ、遠野くんは受験?」
「うん、東京の大学受ける」
「東京……。そうか、そうだと思ったんだ」
「どうして?」
「遠くに行きたそうだもの、なんとなく」そう言いながら、あまり動揺していない自分に驚く。遠野くんの口から現実に東京行きを聞いたりなんかしたら目の前が真っ暗になるかと思っていたのに。すこしの沈黙の後、優しい声で彼が言う。
「……そうか。澄田は?」
「え、あたし? あたし、明日のことも分からないのよね」呆れるよね遠野くん、と思いながら私は正直に話せてしまう。
「たぶん、誰だってそうだよ」
「え、うそ!? 遠野くんも?」
「もちろん」
「ぜんぜん迷いなんてないみたいに見える!」
「まさか」静かに笑いながら彼は続ける。「迷ってばかりなんだ、俺。できることをなんとかやってるだけ。余裕ないんだ」
どきどきする。すぐ隣にいる男の子がこんなことを考えているということ、それを私だけに言ってくれているということが、むしょうに嬉しくてどきどきする。
「……そっか。そうなんだ」
そう言って、私はちらっと彼の顔に目をやる。まっすぐに遠くの灯りを見つめている。遠野くんがまるで、無力で幼い子どもみたいに見える。私はこの人のことが好きなんだと、今さらながら強く思う。
──そうだ。いちばん大切ではっきりしていることは、これだ。私が彼を好きだということ。だから私は、彼の言葉からいろんな力をもらえてしまう。彼がこの世界にいてくれたことを、どこかの誰かに感謝したくてたまらなくなる。たとえば彼の両親、たとえば神さま。そして私はスポーツバッグから進路調査用紙を取り出して、折り始めた。いつのまにか風はすっかり凪いでいて、草のざわめきも虫の音もずいぶん静かになっている。
「……それ、飛行機?」
「うん!」
できあがった紙飛行機を、私は町に向かって飛ばした。それは驚くくらい遠くまでまっすぐに飛んでいき、途中で急な風に吹き上げられ、空のずっと高いところで闇に紛れて見えなくなった。折り重なった雲の合間から、白い天の川がくっきりとのぞいていた。
あんたこんな時間まで何やってたのよ、風邪ひかないように早くお風呂入っちゃいなさいとお姉ちゃんにせき立てられ、私はざぶんと湯船につかった。お湯の中で、なんとなく二の腕をさする。私の二の腕は筋肉でかちかちに硬い。それに標準よりちょっと──だいぶ太い気がする。そして私は、ふわりとしたマシュマロのような柔らかい二の腕に憧れている。でもこんなふうに自分のコンプレックスを目の当たりにしても、今の私はぜんぜん平気だ。体と同じくらい気持ちもぽかぽかしている。高台での会話が、遠野くんの落ち着いた声が、別れ際に彼が言ってくれた言葉が、まだ耳の奥に残っている気がする。その響きを思い出すとぞくぞくとした気持ち良さが全身に広がる。顔がにやけてくるのが自分でも分かる。なんかアブないなあ私はと思いつつ、思わず「遠野くん」、と小さく口に出してしまう。その名前は浴室に甘く反響し、やがて湯気に溶ける。なんか盛りだくさんの一日だったなーと、幸せに思い返す。
私たちはあの後の帰り道、巨大なトレーラーがゆっくりと走っている光景に遭遇した。タイヤの大きさだけで私の背丈くらいある巨大な牽引車がプールほども長さのある白い箱を引っ張っていて、その箱には大きな文字で誇らしげに「NASDA/宇宙開発事業団」と書いてあった。そんなトレーラーが二台もあり、その前後を何台かの乗用車が挟み込んでいて、赤い誘導灯を持った人たちが一緒に歩いている。ロケットの運搬だ。話に聞いていただけで実際に見るのは初めてだったけれど、確かどこかの港まで船で運ばれてきたロケットを、こんなふうに慎重にゆっくりと、一晩かけて島の南端にある打ち上げ場まで運ぶのだ。
「時速五キロなんだって」と、以前どこかで聞いたトレーラーの運搬スピードのことを私は言い、遠野くんも「ああ」とかそんなふうにちょっと呆然と答え、私たちはしばらくの間その運搬風景に見とれた。これは結構レアな光景なはずで、それをまさか遠野くんと一緒に見ることができるとは思ってもいなかった。
それからしばらくして雨が降り始めた。この季節にはよくある、バケツをひっくり返したような突然の土砂降りだった。私たちは慌ててバイクを走らせて家路を急いだ。私のヘッドライトに照らされた、雨にぐっしょりと濡れている遠野くんの背中は、以前よりすこしだけ近くに感じられた。私の家は彼の帰り道の途中にあり、一緒になった時はいつもそうするように、私たちは私の家の門の前で別れた。
「澄田」と別れ際にヘルメットのバイザーを上げながら彼は言った。雨はますます勢いを増していて、私の家からかすかに届く黄色い光がほんのりと彼の濡れた体を照らしていた。貼りついたシャツ越しに見える彼の体の線にドキドキする。私の体も同じように見えているのだろうということに、ドキドキする。
「今日はごめんな、ずぶ濡れにさせちゃったね」
「そんなそんなそんな! 遠野くんのせいじゃないよ、あたしが勝手に行ったんだもん」
「でも話せて良かった。じゃあまた明日な。風邪ひかないように気をつけて。おやすみ」
「うん。おやすみ遠野くん」
おやすみ遠野くん、と湯船の中で私は小さく呟く。
お風呂を出た後の夕食はシチューとモハミの唐揚げとカンパチのお刺身で、おいしくて私は三杯目のご飯をお母さんにお願いしてしまう。
「あんた本当によく食べるわね」と、ご飯をよそったお茶碗を私に渡しながらお母さんが言う。
「ご飯三杯も食べる女子高生なんて他にいないわよ」と、呆れたようにお姉ちゃん。
「だってお腹すくんだもん……。あ、ねえお姉ちゃん」モハミを口に入れながら私は言う。唐揚げにはあんがかかっている。もぐもぐ。おいしい。
「あのね、今日さ、伊藤先生になんか言われたでしょ」
「ああ、うん、何か言ってたわね」
「ごめんね、お姉ちゃん」
「謝ることないじゃない。ゆっくり決めればいいのよ」
「なに花苗、あんた何か怒られるようなことしたの」と、お姉ちゃんの湯飲みにお茶を足しながらお母さんが訊く。
「たいしたことじゃないのよ。あの先生ちょっと神経質なの」となんでもないことのようにお姉ちゃんが答え、私はこの人がお姉ちゃんで良かったと、あらためて思った。
その晩、私は夢を見た。
カブを拾った時の夢だった。カブというのはホンダのバイクのことではなく、私の家で飼っている柴犬の名前だ。小六の時に私が海岸で拾った。お姉ちゃんのカブ(バイクの方)が羨ましかった当時の私は、拾った犬にカブという名前を付けたのだ。
しかし夢の中での私は子どもではなく、今の十七歳の私だった。私は仔犬のカブを抱き上げて、不思議な明るさに満ちている砂浜を歩いている。空を見上げるとしかしそこに太陽はなく、眩しいくらいの満天の星空だった。赤や緑や黄色、色とりどりの恒星が瞬き、全天を巨大な柱のような眩しい銀河が貫いている。こんな場所があったかしらと私は思う。ふと、ずっと遠くを誰かが歩いているのに気づく。その人影を私はよく知っているような気がする。
これからの私にとって、あの人はとても大切な存在になるに違いないと、いつのまにか子どもの姿になっている私は思う。
かつての私にとって、あの人はとても大切な存在だったと、いつのまにかお姉ちゃんと同じ年になっている私は思う。
目が覚めた時、私は夢の内容を忘れていた。
3
「お姉ちゃん、車の免許とったのいつ?」
「大学二年だったから、十九の時かな。福岡にいた時にね」
車の運転をしている時のお姉ちゃんは、我が姉ながら色っぽいなーと、私は思う。ハンドルに添えられた細い指先、朝日をきらきらと反射する長い黒髪、バックミラーをちらっと見る仕草や、ギアを変える時の手つき。開け放した窓から吹き込む風に乗って、姉の髪の匂いがかすかに届く。同じシャンプーを使っているはずなのに、私よりお姉ちゃんの方が良い匂いをさせているような気がする。私はなんとなく制服のスカートの裾をひっぱる。
「ねえお姉ちゃん」と、私は運転席の横顔を見ながら言う。この人まつげ長いよなー。「何年か前さ、うちに男の人連れてきたことがあったじゃない。キバヤシさんだっけ?」
「ああ、小林くんね」
「あの人どうなったの? 付きあってたんだよね」
「何よ急に」とすこし驚いたように姉は答える。「別れたわよ、ずっと前に」
「その人と結婚するつもりだったの? そのコバヤシさんとさ」
「そう思ってた時期もあったよ。途中でやめたけどね」と懐かしそうに、笑いながら言う。
「ふーん……」
どうしてやめたの? という質問を飲み込んで、私は別のことを訊く。
「悲しかった?」
「そりゃあね、何年か付きあっていた人だから。一緒に住んでたこともあったし」
左折して海岸に続く細い道へと入ると、朝日がまっすぐに差し込んでくる。雲一つない真っ青な空。お姉ちゃんは目を細めてサンバイザーを降ろす。そんな動作まで、私にはどこか色っぽく見える。
「でも今思えば、お互いにそれほど結婚願望があったわけでもなかったのよ。そうすると付きあってても気持ちの行き場がないの。行き場っていうか、共通の目的地みたいなね」
「うん」よく分からないまま私はうなずく。
「ひとりで行きたい場所と、ふたりで行きたい場所は別なのね。でもあの頃はそれを一致させなきゃって必死だったような気がするな」
「うん……」
行きたい場所──と私は心の中で繰り返す。なんとなく道端に目をやると、野生のテッポウユリとマリーゴールドがたっぷりと咲き誇っている。眩しい白と黄色、私のボディスーツと同じ色だ。キレイだな、花も偉いよなーと私は思う。
「どうしたのよ急に」と、お姉ちゃんが私の方を見て訊く。
「うーん……どうしたっていうか、別になんでもないんだけどさ」
そう言って、ずっと訊きたかったことを私は訊いた。
「ねえ、お姉ちゃんさ、高校の時カレシいた?」
姉はおかしそうに笑いながら、
「いなかったわよ。あんたと同じ」と答える。「花苗、高校生の時の私にそっくりよ」
遠野くんと一緒に帰ったあの雨の日から二週間が経ち、その間に台風が一つ島を通り過ぎた。サトウキビを揺らす風がかすかに冷気を孕み、空がほんのすこし高くなり、雲の輪郭が優しくなって、カブに乗る同級生の何人かが薄いジャンパーをはおるようになった。この二週間一度も遠野くんと一緒に帰ることは叶わず、私は相変わらず波に乗れていない。それでも最近は以前にも増して、サーフィンをすることがとても楽しい。
「ねえ、お姉ちゃん」
サーフボードに滑り止めのワックスを塗りながら、私は運転席で本を読んでいる姉に話しかけた。車はいつもの海岸そばの駐車場に停められていて、私はボディスーツに着替えている。午前六時三十分、学校に行くまでのこれから一時間、海に入っていられる。
「んー?」
「進路のことだけどさあ」
「うん」
私は扉を開け放したステップワゴンのトランクに腰掛けていて、お姉ちゃんとは背中向きで話す格好になっている。海のずっと沖の方に、大きな軍艦のような灰色の船が停泊しているのが見える。NASDAの船だ。
「今もまだどうしたらいいのかは分からないんだけど。でもいいの、あたしとりあえず決めたの」ワックスを塗り終わり、石鹸のようなその固まりを脇に置きながら、姉の言葉を待たずに私は続ける。
「一つずつできることからやるの。行ってくる!」
そう言って、私はボードを抱えて晴々とした気持ちで海へと駆け出す。──できることをなんとかやってるだけ、というあの日の遠野くんの言葉を思い出しながら。そうしていくしかないんだと、それでいいのだと、私ははっきりと思う。
空も海もおんなじ青で、私はまるでなんにもない空間に浮かんでいるような気持ちになる。もっと沖に出るためにパドリングとドルフィンスルーを繰り返しているうちに、だんだんと心と体の境界、体と海との境界がぼんやりとしてくる。沖に向かってパドルして、やってくる波の形と距離をほとんど無意識のうちに計り、無理だと判断したらボードごと体を水中に押し込んで波をスルーする。いけそうな波だと判断したらターンして波がやってくるのを待つ。やがてボードが波に持ち上げられる浮力を感じる。これから起こることに私はぞくぞくする。波のフェイスをボードが滑りはじめて、私は上半身を持ち上げ、両足でボードを踏みしめ、重心を上げる。立ち上がろうとする。視界がぐっと持ち上がり、世界がその秘密の輝きを一瞬だけ覗かせる。
そして次の瞬間、私は決まって波に飲み込まれる。
でもこの巨大な世界は私を拒否しているわけではないことを、私はもう知っている。離れて見れば──たとえばお姉ちゃんから見れば、私はこの輝く海に含まれている。だからふたたび、沖に向かってパドルしていく。何度もなんども繰り返す。そのうちに何も考えられなくなる。
そしてその朝、私は波の上に立った。ウソみたいに唐突に、文句のつけようもなく完璧に。
たった十七年でもそれを人生と言って良いのなら、私の人生はこの瞬間のためにあったんだ、と思った。
この曲は知っている。モーツァルトのセレナードだ。中一の音楽会でクラス合奏したことがあって、私は鍵盤ハーモニカ担当だった。ホースみたいなのをくわえて息を吐きながら弾く楽器で、自分の力で音を出しているという感覚が好きだった。あの頃、私の世界にはまだ遠野くんはいなかった。サーフィンもやっていなかったし、今思えばシンプルな世界だったよなーと思う。
セレナードは小さな夜の曲と書く。小さ夜よ曲きよく。小さな夜ってなんだろう、と私は思う。でも遠野くんと一緒の帰り道は、なんとなく小さな夜ってかんじがする。まるで私たちのために今日この曲がかかったみたい。なんかテンション上がる。遠野くん。今日こそは一緒に帰らなくちゃ。放課後は海に行かないで待ってようかなー。今日は六限目までしかないし、試験前だから部活動も短いだろうし。
「……なえ」
ん?
「花苗ってば、ねえ」
サキちゃんが私に話しかけている。十二時五十五分。今は昼休みで、教室のスピーカーからは小さな音でクラシック音楽が流れていて、私はサキちゃんとユッコと三人でいつものようにお弁当を広げている。
「あ、ごめん。なんか言った?」
「ぼーっとするのはいいけどさ、あんたゴハン口に入れたまま動き止まってたわよ」とサキちゃんが言う。
「しかもなんかにこにこしてたよ」とユッコ。
私は慌てて、口の中に入ったゆで卵を噛みはじめる。もぐもぐ。おいしい。ごくん。
「ごめんごめん。なんの話?」
「佐々木さんがまた男から告白されたって話だったんだけど」
「あー。うん、あの人キレイだもんねえ」と言って、私はアスパラのベーコン巻きを口に入れる。お母さんのお弁当は本当においしい。
「ていうかさ、花苗、なんか今日ずっと嬉しそうよね」とサキちゃん。
「うん。なんかちょっとコワイよ。遠野くんが見たらひくよ」とユッコ。
今日はふたりの軽口もぜんぜん気にならない。そお? と私は受け流す。
「明らかにヘンだよねこの子」
「うん……。遠野くんとなんかあったの?」
私は余裕の返答として、「ふふーん」と意味ありげににやついた。正確にはこれからなんかあるんだけどね。
「えぇ、ウソ!」
ふたりは驚いて同時にハモる。そんなに驚くか。
私だっていつまでも片想いのままじゃないのだ。波に乗れた今日、私はとうとう、彼に好きだと伝えるんだ。
そう。波に乗れた今日言えなければ、この先も、きっと、ずっと言えない。
午後四時四十分。私は渡り廊下の途中にある女子トイレで鏡に向かっている。六限目が三時半に終わってから、私は海には行かずにずっと図書館で過ごした。勉強なんかは当然できるはずもなく、頬杖をついて窓の外の景色を眺めていた。トイレの中の空気はしんとしている。いつのまにか髪が伸びたな、と鏡を見ながら思う。後ろ髪がすこし肩にかかっている。中学の時まではもっと長かったのだけれど、高校に入ってサーフィンを始めたことをきっかけにばっさりと髪を切った。お姉ちゃんが先生をやっている高校に入ったからという理由も、きっとあった。髪が長くて美人なお姉ちゃんと比べられるのが恥ずかしかった。でももうこのまま伸ばそうかなと、なんとなく思う。
鏡に映った、日焼けして、頬を赤く上気させた私の顔。遠野くんの目に私はどう映っているのだろう。瞳の大きさ、眉の形、鼻の高さ、唇のつや。背の高さや髪質や胸の大きさ。おなじみのかすかな失望を感じながら、それでも私は自分のパーツ一つひとつをチェックするようにじっと見てみる。歯並びでも爪の形でも、なんでもいいから──と私は願う。私のどこかが彼の好みでありますように、と。
午後五時三十分。単車置き場の奥、いつもの校舎裏に私は立っている。日差しはだいぶ西に傾いてきていて、校舎が落とす長い影が地面を光と影にぱっきりと二分している。私がいる場所はその境界、ぎりぎり影の中だ。空を見上げるとまだ明るく青いけれど、その青は昼間よりもすこしだけ色褪せて見える。さっきまで樹木に満ちていたクマゼミの声は静まり、今は足元の草むらからたくさんの虫の音が湧きあがっている。そしてその音に負けないくらい大きく、私の鼓動はどきんどきん鳴り続けている。体中をばたばたと血液が駆けめぐっているのが分かる。すこしでも気持ちを落ち着かせようと深呼吸するのだけれど、あまりにも緊張しすぎていて、私は時々息を吐くのを忘れてしまう。はっと気づいて大きく息を吐いて、そんな呼吸の不規則さに、鼓動は余計に激しくなる。──今日、言えなければ。今日、言わなければ。ほとんど無意識のうちに何度もなんども、壁から単車置き場を覗きこんでしまう。
だから遠野くんから「澄田」と声をかけられた時も、感じたのは嬉しさよりも戸惑いと焦りだった。思わずきゃっと声が出そうになったのを必死に飲み込んだ。
「今帰り?」壁から覗きこんでいる私に気づいた遠野くんが、いつもの落ち着いた足取りで単車置き場から近づいてくる。私は悪事が見つかったような気持ちで単車置き場へと足を踏み出しながら、「うん」と返事をする。──そうか。じゃ、一緒に帰ろうよ。いつもの優しい声で、彼が言う。
午後六時。コンビニのドリンク売り場に並んで立っている私たちを、西向きの窓からまっすぐに差し込んだ夕日が照らしている。いつもは暗くなってから来るコンビニだから、まるで違う店にいるような不安な気持ちになる。夕日の熱さを左頬に感じながら、小夜曲じゃなかったな、と私は思う。外はまだ明るい。私の今日の買い物は決まっている。遠野くんと同じデーリィコーヒー。迷いなくその紙パックを手に取った私に、遠野くんは驚いたように言う。あれ、澄田、今日はもう決まり? 私は彼の方を見ずに、うん、と返事をする。好きって言わなきゃ。家に着いてしまう前に。ずっと心臓が跳ねている。店内に流れているポップスが私の鼓動を消してくれていますようにと、願う。
コンビニの外も、世界は夕日によって光と影に塗り分けられていた。自動ドアから出たところは光の中。コンビニの角を曲がって、単車が置いてある小さな駐車場は影の中だ。紙パックを片手に影の世界に入っていく遠野くんの背中を私は見ている。白いシャツに包まれた、私より広い背中。それを見ているだけで心がじんじんと痛む。強く強く焦がれる。歩いている彼までの四十センチくらいの距離が、ふいに五センチくらい余分に離れる。突然激しい寂しさが湧きあがる。待って。と思い、とっさに手を伸ばしてシャツの裾をつかんだ。しまった。でも、今、好きだと言うんだ。
彼が立ち止まる。たっぷりと時間をおいて、ゆっくりと私を振り返る。──ここじゃない、という彼の言葉が聞こえたような気がして、私はぞくっとする。
「──どうしたの?」
私の中のずっと深い場所が、もう一度、ぞくっと震えた。ただただ静かで、優しくて、冷たい声。思わず彼の顔をじっと見つめてしまう。にこりともしていない顔。ものすごく強い意志に満ちた、静かな目。
結局、何も、言えるわけがなかった。
何も言うなという、強い拒絶だった。
キチキチキチ……というヒグラシの鳴き声が島中の大気に反響している。ずっと遠くの林からは、夜を迎える準備をしている鳥たちの甲高い声が小さく聞こえる。太陽はまだぎりぎり沈んでいなくて、帰り道の私たちを複雑な紫色に染めている。
私と遠野くんは、サトウキビとカライモ畑に挟まれた細い道を歩いている。さっきから、私たちはずっと無言だ。規則的なふたりぶんの硬い靴音。私と彼との間は一歩半ぶんくらい離れていて、離れないように近づきすぎないように私は必死だ。彼の歩幅が広い。もしかして怒っているのかもしれないと思ってちらりと顔を見たけれど、いつもの表情でただ空を見ているように見える。私は顔を伏せ、自分の足がアスファルトに落とす影を見つめる。コンビニに置いてきたバイクのことをちらっと思い出す。捨ててきたわけじゃないのに、自分が残酷なことをしてしまったような後悔に似た気持ちがある。
好きという言葉を飲み込んだ後、まるで私の気持ちに連動するみたいに、カブのエンジンがかからなくなってしまった。スターターを押してもキックでかけようとしても、うんともすんとも言わない。コンビニの駐車場でバイクにまたがったまま焦る私に遠野くんはやっぱり優しく、私はさっきの彼の冷たい顔がまるでウソみたいに思えて、なんだか混乱してしまう。
「たぶん、スパークプラグの寿命なんじゃないのかな」と、私のカブを一通り触った後に遠野くんは言った。「これお下がり?」
「うん、お姉ちゃんの」
「加速で息継ぎしてなかった?」
「してたかも……」そういえばここ最近、時々エンジンがかかりにくいことがあった。
「今日はここに置かせてもらって、後で家の人に取りに来てもらいなよ。今日は歩こう」
「えぇ! あたしひとりで歩くよ! 遠野くんは先帰って」私は焦って言う。迷惑なんてかけたくない。それなのに、彼は優しく言う。
「ここまでくれば近いから。それにちょっと、歩きたいんだ」
私はわけも分からず泣きたい気持ちになる。ベンチに二つ並んだデーリィコーヒーの紙パックを見る。彼の拒絶と感じたのは私の勘違いだったんじゃないかと一瞬思う。でも。
勘違いなわけない。
なぜ私たちはずっと黙って歩き続けているのだろう。一緒に帰ろうと言ってくれるのはいつも遠野くんからなのに。なぜあなたは何も言わないんだろう。なぜあなたはいつも優しいのだろう。なぜあなたが私の前に現れたのだろう。なぜ私はこんなにもあなたが好きなのだろう。なぜ。なぜ。
夕日にキラキラしているアスファルト、そこを必死に歩く私の足元がだんだんと滲んでくる。──お願い。遠野くん、お願い。もう私は我慢することができない。だめ。涙が両目からこぼれ落ちる。両手でぬぐってもぬぐっても涙が溢れる。彼に気づかれる前に泣きやまなくちゃ。私は必死に嗚咽を抑える。でも、きっと彼は気づく。そして優しい言葉をかける。ほら。
「……澄田! どうしたの!?」
ごめん。きっとあなたは悪くないのに。私はなんとか言葉をつなごうとする。
「ごめん……なんでもないの。ごめんね……」
立ち止まって、顔を伏せて、私は泣き続けてしまう。もう止めることができない。澄田、という遠野くんの悲しげな呟きが聞こえる。今まででいちばん、感情のこもった彼の言葉。それが悲しい響きだということが、私にはとても悲しい。ヒグラシの声はさっきよりずっと大きく大気を満たしている。私の心が叫んでいる。遠野くん。遠野くん。お願いだから、どうか。もう。
──優しくしないで。
その瞬間、ヒグラシの鳴き声がまるで潮が引くみたいに、すっと止んだ。島中が静寂に包まれたように、私は感じた。
そして次の瞬間、轟音に大気が震えた。驚いて顔を上げた私の滲んだ視界に、遠くの丘から持ち上がる火球が見えた。
それは打ち上げられたロケットだった。噴射口からの光が眩しく視界を覆い、それは上昇を始めた。島全体の空気を震わせながら、ロケットの炎は夕暮れの雲を太陽よりも明るく光らせ、まっすぐに昇っていく。その光に続いて白い煙の塔がどこまでも立ち上がっていく。巨大な煙の塔に夕日が遮られ、空が光と影とに大きく塗り分けられてゆく。どこまでもどこまでも光と塔は伸びていく。それは遙か上空までまんべんなく大気の粒子を振動させ、まるで切り裂かれた空の悲鳴のように、残響が細く長くたなびく。
"小説・秒速5センチメートル A chain of short stories about their distance. (5 сантиметров в секунду)" отзывы
Отзывы читателей о книге "小説・秒速5センチメートル A chain of short stories about their distance. (5 сантиметров в секунду)". Читайте комментарии и мнения людей о произведении.
Понравилась книга? Поделитесь впечатлениями - оставьте Ваш отзыв и расскажите о книге "小説・秒速5センチメートル A chain of short stories about their distance. (5 сантиметров в секунду)" друзьям в соцсетях.