湿気の酷い日で、窓を閉め切ってクーラーを低い温度でつけていたが、それでも雨が地表を叩く音と濡れた道路を車が滑る音とともに、べたつく湿気が部屋の中に忍び込んでいた。テレビの画面には、見覚えのある種子島宇宙センターから巨大な炎を吐き出して上昇するH2Aの姿が映っている。カットが切り替わり雲間を昇ってゆくH2Aを超望遠で捉えた映像になり、その次に、ロケット本体に据え付けられたカメラから補助ブースターを見下ろしたカットになった。遙か眼下の雲の切れ目に、遠ざかる種子島の全景が見えていた。彼が高校時代を過ごした中種子町もその海岸線も、くっきりと見分けることができた。
一瞬、ぞくりとした寒気のようなものが彼の体を走った。
でもそういう光景を前に、自分が何を感じるべきなのかが彼にはよく分からなかった。種子島はもう故郷ではなかった。両親はずいぶん前に長野に転勤していておそらくそこに永住するだろうし、その島は彼にとってはすでに通過した場所だった。ぬるくなりはじめた缶ビールをひとくち飲み、苦い液体が喉を通過して胃に落ちていく感触を確かめる。若い女性のニュースキャスターが、打ち上げられた衛星は移動端末のための通信衛星だと、なんの感慨もない口調で語っていた。──ということは、この打ち上げは自分の仕事ともまったく無関係なわけでもないのだ。でもそういうこととは関係なく、自分はずいぶん遠いところに運ばれてきてしまったと、彼は思う。
初めて打ち上げを見たのは十七歳の時だ。隣には制服を着た女の子がいた。クラスは違ったが仲が良かった。というよりも、その女の子がわりと一方的に彼になついていた。澄田花か苗なえという、サーフィンでよく日に焼けた快活で可愛らしい女の子だった。
十年近い歳月が感情の起伏を優しく均ならしてくれてはいたが、それでも澄田のことを考えると、今でもすこしだけ胸が痛む。彼女の背丈や汗の匂い、声や笑顔や泣き顔、そういう彼女の気配すべてが、思春期を過ごした島の色や音や匂いとともに鮮明に思い起こされてくる。それは後悔に似た感情だったが、だからといって、当時の自分にはやはりあのように振る舞うことしかできなかったということも、彼には分かっていた。澄田が自分に惹かれた理由も、彼女が告白しようとした何度かの瞬間も。それを言わせなかった自分の気持ちも、打ち上げを見た時の一瞬の高揚の重なりも、その後の彼女の諦めも。すべてがくっきりと見えていて、それでもあの時の自分には何もできなかった。
彼が大学進学のために上京することになった時、澄田にだけは飛行機の時間を伝えた。出発はよく晴れた三月の風の強い日。まるでフェリー乗り場のようにも見える小さな空港の駐車場で、ふたりは最後の短い話をした。途切れがちな会話の間、澄田はずっと泣いていたけれど、それでも別れ際には彼女は笑った。たぶんあの時すでに、澄田は自分よりもずっと大人でずっと強かったのだと彼は思う。
自分はあの時、彼女に対して笑顔を向けることができていただろうか? もうよく覚えていなかった。
深夜二時二十分。
明日の出勤に備えて、もう寝なければならない時間だ。ニュースはすでに終わり、いつの間にか通信販売の番組が始まっている。
彼はテレビを消して歯を磨き、クーラーのタイマーを一時間で切れるようにセットして部屋の電気を消し、ベッドに入る。枕元で充電している携帯電話の小さな光が点滅していて、メール着信があったことを知る。画面を開くと、ディスプレイの白い光に部屋の中がぼんやりと照らされる。水野からの食事の誘いだった。彼はベッドに身を横たえ、しばらく目をつむる。
まぶたの裏には様々な模様が浮かんでいる。まぶたが眼球を押さえる圧力を視神経は光と感じるから、人間は決して本当の暗闇を見ることはできない、そう教えてくれたのは誰だったろう。
……そういえばあの頃の自分には携帯電話で誰にも出すことのないメールを打つ癖があったと、彼はふと思い出した。最初のうち、それはひとりの女の子へ宛てたメールだった。メールアドレスも知らない、いつの間にか文通も途絶えてしまった女の子。その子への手紙を書かなくなってからも、しかし自分の中に収まりきらない感情があった時、それを彼女へ伝えるつもりで彼はメールを打ち、決して送信することなく削除した。それは彼にとって準備期間のようなものだった。ひとりで世界に出ていくための助走のようなもの。
しかし次第に、メールの文面は誰に宛てたものでもない、漠然とした独り言のようなものへと変わっていき、やがてその癖も消えた。そのことに気づいた時、もう準備期間は終わったのだと彼は思った。
もう彼女への手紙は出さない。
彼女からの手紙も、きっともう来ない。
──そういうことを考えているうちに、あの頃の自分が抱えていたひりひりとした焦りのようなものを、彼はありありと思い出した。その気持ちはあまりにも今の自分に通底していて、結局自分は何も変わっていないのかと、いささか愕然とする。無知で傲慢で残酷、あの頃の自分。いや、それでも──と、目を開きながら彼は思う。すくなくとも今の自分には、はっきりと大切だと思える相手がいる。
たぶん自分は水野が好きなんだ、と彼は思う。
今度会った時に気持ちを伝える。そう決心をして、彼はメールの返信を打った。今度こそ、水野と自分の気持ちにきちんと向きあおう。あの最後の日、澄田が自分にしてくれたように。
あの日、島の空港で。
互いに見慣れぬ私服姿で、強い風が澄田の髪と電線とフェニックスの葉を揺らしていた。彼女は泣きながら、それでも彼に笑顔を向けて言ったのだ。
ずっと遠野くんのことが好きだったの。今までずっとありがとう、と。
4
働き始めて三年目に配属されたチームで、彼の仕事は一つの転機を迎えた。
それは彼の入社以前から続いているプロジェクトだったが、長い時間をかけて迷走を続けた結果、当初の目標を大幅に縮小して終了させることが会社の方針として決まっていた。いわば敗戦処理のような仕事で、複雑に絡み合い膨れあがったプログラム群を整理し、なんとか使い物になる成果物を救い出して被害を最小限に抑えて欲しいというのが、彼に異動を告げた事業部長からのオーダーだった。要するに、おまえの能力は認めたからこのへんで理不尽な苦労もしてこい、ということらしかった。
最初のうち、彼はチームリーダーに命じられるまま仕事を続けた。しかしそのやり方では余計なサブルーチンが蓄積していくだけで、かえって事態が悪化していくということにすぐに気づいた。それをリーダーに進言したが取りあってもらえず、彼は仕方なく一ヵ月間いつも以上に残業を増やした。その一ヵ月の間、リーダーに命じられた通りの仕事を行うと同時に、彼がベストだと考える方法で同じ仕事を処理してみた。結果は明らかで、彼の考えた方法でなければプロジェクトは収束に向かわなかった。その結果を携えて再度リーダーに掛けあったが、激しく叱責されたうえに、今後二度と独断を行うなと強く言いふくめられた。
彼は困惑してチームの他のスタッフたちの仕事を見渡してみたが、全員がただリーダーに命ぜられるままの仕事を行っているだけだった。これではプロジェクトは終わるわけはなかった。間違えた初期条件で始めた仕事は、根本を正さぬ限りは前に進んでもより複雑に誤謬を重ねていくだけだ。そしてこのプロジェクトは、初期条件を見直すには長く進め過ぎていた。会社の言う通り、いかに上手くたたむかを考えるべきなのだ。
彼は迷った末に、彼に異動を命じた事業部長に相談を持ちかけた。事業部長は長い時間話を聞いてくれたが、結論として言っていることは結局、チームリーダーの立場を立てつつもプロジェクトを上手く終わらせてくれ、ということだった。そんなことは不可能だと、彼は思った。
それから三ヵ月以上、ひたすらに不毛な仕事が続いた。チームリーダーは彼なりにプロジェクトを成功させたいのだということも理解できたが、だからといって黙って事態を悪化させる作業を続けることは、彼にはできなかった。幾度となくリーダーから怒鳴りつけられながら、チームの中で彼だけが独自に仕事を進めた。事業部長が彼の行為を黙認してくれているらしいことだけが、救いといえば救いだった。しかし彼の作業の成果を上回る混乱を、彼以外のスタッフが日々積み重ねていった。煙草の本数が増え、帰宅してから飲むビールの量が増えた。
彼はある日耐えかねて、事業部長に自分をチームから外してくれと頼み込んだ。さもなければリーダーを説得して欲しい。それも駄目ならば会社を辞める、と。
結局、その翌週にチームリーダーは異動となった。替わりに入ってきた新しいリーダーは他プロジェクトも兼任しており、やっかいごとを背負い込まされたことであからさまに彼を冷淡に扱ったが、すくなくとも仕事については合理的な判断を下す人間だった。
ともかくも、これでやっと出口に向かって歩き始めることができる。仕事はますます忙しくなり職場ではますます孤独になったが、彼は懸命に働いた。もうそうすることしかできなかった。やれることはすべてやったのだ。
そういう状況の中で、水野理紗と過ごす時間は以前にも増して貴重なものになっていった。
一週か二週に一度、会社帰りに彼女のマンションのある西国分寺駅に通った。待ち合わせは夜の九時半で、時々は小さな花束を買っていった。会社の近くの花屋は夜八時までしか営業していないので、彼はそういう時は七時頃に会社を抜け出して花を買い、駅のコインロッカーにしまい、急いで会社に戻って八時半まで仕事をする。そういう密やかな行動は楽しかった。そして混んだ中央線に乗り、花束が潰されないように気をつけながら、水野の待つ駅に向かう。
土曜日の夜は、時々どちらかの部屋に泊まった。彼が水野の部屋に泊まることの方が多かったが、水野が泊まりに来ることもあった。お互いの部屋には二本の歯ブラシが置かれ、彼女の部屋には何組かの彼の下着が置かれ、彼の部屋にはいつのまにか料理器具と調味料が置かれていた。今までは決して読まなかったような種類の雑誌が部屋にすこしずつ増えていくことは、彼の気持ちを温かくした。
夕食はいつも水野が作ってくれた。料理を待つ間、包丁の音や換気扇が回る音、麺が茹でられる匂いや魚が焼かれる匂いをかぎながら、彼はノートパソコンで仕事の続きをした。そんな時は、彼は実に穏やかな気持ちでキーボードを叩いた。料理の音とキーを叩く音が小さな部屋を優しく満たしていて、それは彼の知るかぎり、最も心安まる空間であり時間であった。
水野のことで覚えていることはたくさんある。
たとえば食事。水野はいつもとても美しく食事をした。鰆さわらの身をとても綺麗に骨からほぐしたし、肉を切り分ける指先は淀みなく、パスタはフォークとスプーンを器用に使い見とれてしまうくらい上品に口に運んだ。それから、コーヒーカップを包む桜色の爪先。頬の湿り気、指先の冷たさ、髪の匂い、肌の甘さ、汗ばんだ手のひら、煙草の匂いが移った唇、切なげな吐息。
線路沿いにある彼女のマンションで、部屋の灯りを消してベッドにもぐり込んでいる時、彼はよく窓の向こうの空を見上げた。冬になると星空が綺麗に見えた。外はたぶん凍えるほど寒く、部屋の空気も吐く息が白くなるほど冷たかったが、裸の肩に乗せた彼女の頭の重みは温かく心地よかった。そういう時、線路を走る中央線のガタン、ガタンという音は、まるでずっと遠くの国から響いてくる知らない言葉のように、彼の耳に響いた。今までとはまったく違う場所に自分がいるような気がした。そしてもしかしたら、僕がずっと来たかった場所はここなのかもしれないと、彼は思う。
自分が今までどれほど乾いていたのか、どれほど孤独に過ごしていたのかということを、水野との日々で彼は知った。
だからこそ、水野と別れることになった時、底知れぬ闇を覗き込む時のような不安が、彼を包んだ。
三年間それなりの想いを賭して、彼らなりに必死に関係を築いてきた。にもかかわらず、結局は彼らの道は途中で別れていた。この先をふたたびひとりきりで歩いていかなければならないと思うと、重い重い疲労のようなものを彼は感じた。
何があったわけでもなかったのだと、彼は思う。決定的な出来事は何もなかった。しかしそれでも、だからこそ、人の気持ちは決して重ならずに流れてしまう。
深夜、窓の外の車の音に耳をすませながら、暗闇の中で目を見開いて、彼は必死に思う。ほどけてしまいそうな思考を、なんとか強引にかき集め、ひとかけらでも教訓を得ようとする。
──でもまあ仕方がない。結局は、誰とだっていつまでも一緒に居られるわけではないのだ。人はこうやって、喪失に慣れていかなければならないのだ。
僕は今までだって、そうやってなんとかやってきたのだ。
彼が会社を辞めたのも、水野との別れに前後する時期だった。
だからといってその二つの出来事が関係しているかと訊かれても、彼にはよく分からなかった。たぶん関係はないような気がする。仕事でのストレスで水野にあたってしまったことは何度もあったし、その逆もあったが、そういうことはむしろ表層的な出来事だったと思う。もっと言葉では説明できないような──不全感のようなものが、その頃の自分をいつでも薄く覆っていたような気がする。でも、だから?
よく分からない。
会社を辞めるまでの最後の二年ほどの記憶は、後から思い返してみるとまるでまどろみの中にいたかのように、ぼんやりとしている。
いつのまにか季節と季節の区別がひどく曖昧に感じられるようになり、今日の出来事が昨日の出来事のように思え、時によっては、自分が明日やっているだろうことが映像のように眼前に見えたりした。仕事は変わらず忙しかったが、内容はもはやルーチンワークにすぎなかった。プロジェクトを終わらせるための見取り図があり、それに必要な時間はほとんど機械的に、費やす労働時間によって算出できた。速度の変わらない車列の中を、交通標識に従ってひたすらに進んでいくようなものだ。ハンドルもアクセルも、ほとんど何も考えなくても操作することができた。誰と会話する必要もない。
そしていつのまにか、プログラミングや新しいテクノロジーやコンピュータそのものが、彼にとっては以前ほどの輝きを持つものではなくなっていた。でもまあそういうものなんだろうな、と彼は思う。少年時代にあれほど輝きに満ちていた星空が、いつのまにか見上げればただそこにあるものになっていたように。
その一方で、彼に対する会社の評価はますます高まっていった。査定のたびに昇給が行われ、賞与の額は同期の誰よりも上だった。彼の生活はそれほど金のかかるものでもなかったしそもそも遣う時間もなかったから、通帳にはいつのまにか今まで目にしたことのないような額が貯まっていた。
キーを叩く音だけが静かに響くオフィスの中で椅子に座り、打ち込んだコードがビルドされるのを待つ間、ぬるくなったコーヒーのカップを口につけたまま、不思議なものだな、と彼は思った。買いたいものなんて何もないのに、金だけは貯まっていくのだ。
そういう話を冗談めかしてすると水野は笑ってくれたが、その後ですこしだけ悲しそうな顔をした。そんな水野の表情を見ていると、心のずっと深い場所を直接きゅっとにぎられたように、胸の奥がかすかに縮んだ。そしてわけもなく悲しくなった。
それは秋の初めで、網戸からは涼しい風が吹き込んでいて、腰をおろしているフローリングの床がひんやりと心地よかった。彼はネクタイを外した濃いブルーのワイシャツ姿で、彼女は大きなポケットの付いた長いスカートに濃い茶色のセーターを着ていた。セーター越しの優しげな胸のふくらみを見ると、彼はまたすこしだけ悲しくなった。
会社帰りに水野の部屋に来たのは久しぶりだった。以前に来た時はまだクーラーをつけていたから、と彼は考えてみる。……そうだ、ほとんど二ヵ月ぶりだ。お互いに仕事が忙しくタイミングが合わなかったからだが、絶対に会えない、というほどでもなかったと思う。たぶん以前ならばもっと頻繁に会っていた。お互いに無理をしなくなった。
「ねえ、貴樹くんは小さな頃なんになりたかったの?」と、彼の会社の愚痴をひととおり聞いた後に、水野が尋ねた。彼はすこし考える。
「そういうものは何もなかった気がする」
「なんにも?」
「うん。毎日を生き抜くのに精一杯だったよ」と笑いながら言うと、「私も」と言って水野も笑い、皿に盛られた梨を一つ口に運んだ。しゃくり、という気持ちの良い音がする。
「水野さんも?」
「うん。学校でなりたいものを訊かれた時、いつも困っちゃったわ。だから今の会社に就職が決まった時、けっこうホッとしたの。これで二度と将来の夢なんかを考えなくていいんだって」
うん、と同意しながら、彼も水野が剥いてくれた梨に手を伸ばす。
なりたいもの。
いつだって、自分の場所を見つけるために必死だった。自分はまだ、今でも、自分自身にさえなれていない気がする。何かに追いついていない気がする。〈ほんとうの自分〉とかそういうことではなく、まだ途上にすぎないと彼は思う。でも、どこへ向かっての?
水野の携帯が鳴って、ちょっとごめんね、と言って彼女は携帯を持って廊下に向かった。彼は横目で見送り、煙草をくわえ、ライターで火をつける。廊下から楽しげな声が小さく聞こえてきて、突然、自分でも驚くくらい、彼は見知らぬ電話の相手に対して激しく嫉妬した。顔も知らない男が水野のセーターの下の白い肌に指を這わす姿が目に浮かび、瞬間、その男と水野を激しく憎んだ。
それはせいぜい五分程度の電話だったが、「会社の後輩からだったわ」と言って水野が戻ってきた時、自分が理不尽に蔑まれているような気がした。でも彼女が悪いわけではない。あたりまえだ。「うん」と返事をしながら、自分の感情を押しつぶすように彼は煙草を灰皿にこすりつけた。なんなんだこれは、と愕然と彼は思う。
翌朝、彼らはダイニングのテーブルに座り、久しぶりに一緒に朝食を食べた。
窓の外に目をやると、空は灰色の雲に覆われている。すこし肌寒い朝だ。こうしてふたりで摂る日曜日の朝食は、彼らにとってとても象徴的で大切な時間だった。休日はまだ手つかずでそこにあり、たっぷりとした時間をどのように過ごしても良いのだ。まるで彼らのその先の人生みたいに。水野の作る朝食はいつでも美味しく、その時間はいつでも確かに幸せだった。そのはずだった。
ナイフで切り分けたフレンチトーストにスクランブルエッグをのせて口に運ぶ水野を見ながら、ふと、ここで食べる朝食はこれが最後になるのではないかという予感が浮かんだ。理由なんてないし、なんとなく思っただけだ。それを望んでいたわけではないし、来週だってその次だって、彼は彼女と朝食を食べたかった。
しかし実際には、それがふたりの最後の朝食となった。
彼が会社に辞表を出そうと決めたのは、プロジェクトの終了まで三ヵ月という見通しがはっきりと立ってからだった。
一度そう決めてしまうと、もっとずっと以前から自分が退職のことを考えていたのだということに気がついた。今のプロジェクトを終わらせて、その後一ヵ月ほどかけて必要な引き継ぎや整理を行い、できれば来年の二月までには退職したいと、彼はチームリーダーに伝えた。チームリーダーはいくぶん同情した口調で、それなら事業部長に相談して欲しいと言った。
事業部長は彼から辞職の意を告げられると、本気で引き留めてくれた。待遇に不満があればある程度は対応できるし、何よりもここまできて辞める手はない。今が辛抱のしどころなんだ。今のプロジェクトは辛いかもしれないが、それが終わればお前の評価はもっと上がるし、仕事も面白くなるはずだ、と。
そうかもしれない。でもこれは僕の人生なんです、と、声には出さずに彼は思う。
待遇に不満はありません、と彼は答えた。それに今の仕事が辛いわけでもないんですと。それは嘘ではなかった。彼はただ辞めたいだけだった。そう伝えても、事業部長は納得してくれなかった。無理もない、と彼は思う。自分自身に対してさえ上手く説明できていないのだ。
でもともかくも、いくぶんのごたごたはあったにしても、彼の退職は一月末と決まった。
秋が深まり、空気が日に日に澄んだ冷たさを増していく中、彼は最後の仕事をひたすらにこなしていった。プロジェクト終了の明確な期限ができたことで彼は以前よりもさらに忙しくなり、休日はもうほとんどなかった。部屋にいる短い時間は、たいてい泥のように深く深く眠った。それでも常に寝不足で体はいつもだるく火照っていて、毎朝の通勤電車では酷い吐き気がした。しかしそれは余計なことを考えなくてすむ生活でもあった。そういう日々に安らぎさえ感じた。
辞表を出せば会社での居心地が悪くなることを覚悟していたが、実際にはその逆だった。チームリーダーは不器用ながら感謝の意を示してくれていたし、事業部長は新しい就職先の心配までしてくれた。お前なら俺も自信を持って薦められるから、と事業部長は言った。しばらくはゆっくりしようと思うんですと、彼はそれを丁寧に辞退した。
関東に冷たい風を送りこむ台風が通り過ぎた後に、彼はスーツを冬物に替えた。ある寒い朝には箪笥から出したばかりでまだかすかにナフタリンの匂いのするコートを着込み、また別の日には水野からもらったマフラーを巻き、彼自身もまた次第に冬を身に纏っていった。誰ともほとんど口をきかず、それを苦痛とも思わなかった。
水野とはメールで時折──週に一、二回──連絡を取りあっていた。メールが戻ってくるまでにずいぶん間が空くようになっていたが、彼女も忙しいのだろうとなんとなく思う程度だった。それにそれはお互いさまなのだ。気がつけば、一緒に朝食を食べたあの日からもう三ヵ月も、水野とは会っていないのだった。
そして一日の仕事を終え、中央線の最終電車に乗り込みぐったりと席に座るたびに、彼はいつも深く息を吐いた。とてもとても深く。
東京行きの深夜の電車はすいていて、いつでもかすかに酒と疲労の匂いがした。耳に馴染んだ電車の走行音を聞きながら、中野の街の向こうから近づいてくる高層ビルの灯を眺めているとふと、空高くから自分を見下ろしているような気持ちになった。地表をゆっくりと這う細い光の線が墓標のような巨大なビルに向かっている景色を、彼ははっきりと思い浮かべることができた。
強い風が吹き、遙か地表の街の灯をまるで星のように瞬かせる。そして僕はあの細い光の中に含まれていて、この巨大な惑星の表面をゆっくりと移動しているのだ。
電車が新宿駅に到着しホームに降りる時、彼は自分の座っていた座席を振り返らずにはいられなかった。重い疲労にくるまれたスーツ姿の自分が、まだそこに座ったままなのではないかという気持ちがどうしても拭えなかったからだ。
今でもまだ東京に慣れることができていないと彼は思う。駅のホームのベンチにも、いくつも列をなす自動改札にも、テナントのたちならぶ地下街の通路にも。
十二月のある日、二年近く続いたプロジェクトが終了した。
終わってみると、意外なほど感慨はなかった。昨日までより一日ぶん疲労が濃くなっただけだ。コーヒー一杯だけの休憩を挟んで、彼は退職の準備を始めた。結局その日も、帰りは最終電車だった。
新宿駅で降りて自動改札を抜け、西口地下のタクシー乗り場にできた行列を見て、そういえば金曜の夜だった、と彼は気づいた。おまけに今日はクリスマスだ。駅構内のくぐもったざわめきに混じってジングルベルがどこからか小さく聞こえてくる。タクシーは諦めて歩いて帰宅することにして、彼は西新宿に向かう地下道を歩き、高層ビル街に出た。
深夜のこの場所はいつも静かだ。ビルの根本を沿うように歩く。新宿から歩いて帰る時のいつものコースだった。ふいに、コートのポケットで携帯電話が振動した。立ち止まり、一呼吸おいてから、携帯を取り出す。
水野からだ。
出ることができなかった。なぜだろう、出たくなかった。ただひたすらに辛かった。しかし何が辛いのかが分からないのだ。どうすることもできず、携帯電話の小さな液晶ディスプレイに表示された〈水野理紗〉という名前を、彼は立ち止まったままじっと見つめていた。携帯電話は何度か振動し、やがて唐突に、こと尽きたように沈黙した。
胸に急に熱いものが込みあげてきて、彼は上を見上げる。
まるで空に向かって消失していくように、視界の半分を黒々としたビルの壁面が占めている。壁面にはいくつかの窓の明かりがあり、その遙か先には息づくように赤く明滅している航空障害灯があり、その上には星のない都市の夜空があった。そしてゆっくりと、無数の小さな欠片かけらが空から降りてくるのが見えた。
──雪だ。
せめて一言だけでも、と彼は思う。
その一言だけが、切実に欲しかった。僕が求めているのはたった一つの言葉だけなのに、なぜ、誰もそれを言ってくれないのだろう。そういう願いがずいぶんと身勝手なものであることも分かっていたが、それを望まずにはいられなかった。久しぶりに目にした雪が、心のずっと深いところにあった扉を開いてしまったかのようだった。そして一度それに気づいてしまうと、今までずっと、自分はそれを求めていたのだということが彼にははっきりと分かるのだった。
ずっと昔のあの日、あの子が言ってくれた言葉。
貴樹くん、あなたはきっと大丈夫だよ、と。
5
篠原明あか里りがその古い手紙を見つけたのは、引っ越しのための荷物を整理している時だった。
それは押し入れの奥深くにしまわれた段ボールの中にあった。段ボールの蓋を閉じてあるガムテープにはただ「むかしのもの」と書かれているだけで(もちろんそれは何年も前に自分で書いたはずなのだが)、彼女はなんとなく興味を惹かれてその段ボール箱を開けてみた。その中には、小学生から中学生時代にかけての細々としたものが入っていた。卒業文集、修学旅行のしおり、小学生向けの月刊誌が数冊、何を録音したのかもう覚えていないカセットテープ、色褪せた赤いランドセルと、中学の時に使っていた革の鞄。
そういう懐かしいものたちを一つひとつ手にとって眺めながら、もしかしたらあの手紙を見つけるかもしれない、という予感があった。そして段ボールのいちばん下にクッキーの空き缶を見つけた時に、彼女は思い出した。そうだ、私は中学校の卒業式の夜、あの手紙をこの缶の中にしまったんだ。鞄から出すことができずに長い間持ち歩き続けていた手紙で、卒業を機会に、振り切るようにこの缶にしまったのだ。
缶の蓋を開けると、中学の時に大切にしていた薄いノートに挟まれて、その手紙はあった。それは彼女が初めて書いたラブレターだった。
それはもう十五年も前、好きだった男の子との初めてのデートの時に渡すつもりで書いた手紙だった。
その日は深く静かな雪の日だったな、と彼女は思い出す。まだ私は十三歳になったばかりで、私が好きだった男の子は電車で三時間もかかる場所に住んでいて、その日は彼が電車を乗り継いで私に会いに来てくれる日だったのだ。でも雪のせいで電車が遅れて、彼は結局四時間以上も遅れてしまった。彼を待っている間に、私は木造の小さな駅でストーブの前の椅子に座りながら、この手紙を書いたんだ。
手紙を手にしていると、その時の不安や寂しさが蘇った。その男の子を愛しいと思う気持ちも、彼に会いたいと思う気持ちも、それが十五年も前のものだったなんて信じられないくらいにありありと思い出すことができた。それはまるで今ある心のように強く鮮やかで、その残照の眩しさに彼女は戸惑いを覚えるほどだった。
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